昭和42年8月16日 朝の御理解
教祖様は皆さんもご承知のように、教祖の12歳のお年に御養子においでになられる。そして養家のご両親に、お願いをしておられることは、「私は、あの神仏に参りとうございます」と、神、仏様にお参りがしたい信心がしたいと仰る。ですからお休みの日にはどうぞ、心よう参らせて下さいと言うておられるのですね。まだ12歳のお子さんが、そういうことを仰っておられます。
また段々成長されましてからも、色々な村でもまぁ祭日といったような、お休み日(よこい?日)と言った様な日があるんですね。今がそのものに意味があるとか、まぁいわゆる、今の言葉でいうなら、デコレーションですね。出かけようと言った様な時でも、決してそういうような方に連れにならずに、そういう日に、例えば色々な道づくりとか、普請なんかの御用にあたっておられます。
やっぱり信心には一つ心がけというものが必要ですね。頼むことのあるけんお参りしよると、お願い事があるけんお参りしよると、というようなものではなくてですね、信心がそこまで好きなことに、なってこなければならないと思いますね。いよいよ今日は、夏の祈願大祭がここで、親先生御祭主の元に、ございますわけでございますが、幾人も私はそういう、お取次ぎをさして頂いたんですけれども。
日曜はちょうど何処どこに、山登りに行くようになっておったとか、日曜は何処どこに、遊びに行くようになっておった、もうお神様参りなんかには、もったいない、と言わんばかりのことを、言う人たちがあったことでございます。さいわい、いわばこよみの16日といえば、それこそ、地獄の釜の蓋でも、開くというぐらい、地獄の鬼ですら、休もうとゆうような日。
本当に心おきなく、もう一家をあげてお参りができるぞという人と、そりゃ惜しかった、日曜の日にゃ椛目に行くところかね、遊びに行きたいと思いよったのに、御大祭じゃどんこんされんと言った様な風にして、まぁどちらにもこう引かれる様な感じですね。だから、そのう私それを聞き、お取次ぎさして頂きながらでした、本当にあのう神様と、いわゆるそのうここでは。
初めて仕えられるという夏の御大祭と。遊びとはどちらが、その人にとっては大事だろうかという風に感じたんですけれども、お互いの心の中にです、果たしてやっぱり厳密に見てみると、そういうようなものがあるかも分かりません。今日は、16日の普通でいえば、盆のお休み。盆休みの日でございます。本当に丁度今日のような日に。お祭りがあるということを有り難いと。
思えれる信心をね、本当に今日は、それこそいよいよ店をしておるなら店を閉めてお参りができる日、何をしよっても今日だけは休ましてもらえれる、もう(けんたい?)に休ませてもらえてお神様のお参りができるという、そういう喜び心が神様へ向う時に、私は神様も喜んで下さる、また私ども、おかげが受けられるとゆうふうに思いますですね。
どうぞ。